お茶の伝来と拡がり
- 栄西から明恵へ、茶種から茶園へ
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左:明恵上人肖像画(高山寺蔵)
右:「日本最古之茶園」碑京都市右京区栂尾(とがのお)の山中に、お茶と関わりの深い古刹(こさつ)があります。それが、鎌倉時代の前期、明恵(みょうえ)上人が再興した高山寺(こうさんじ)です。明恵の弟子が記した『栂尾明恵上人伝記』によると、明恵は茶祖・栄西から禅の教えを受けており、その際に贈られた茶種をこの地に播いて栽培を始めたと書かれています。また、茶種を入れて栄西から届けられたという漢柿蔕茶壺(あやのかきへたちゃつぼ)が、高山寺に伝えられています。茶の功徳を学んだ明恵は、修行に勤しむ衆僧にも積極的に飲茶を勧めたそうです。今も高山寺では、毎年11月になると明恵に新茶を献上する法会「献茶式」が、境内にある開山堂で催されています。
- 「本茶」か「非茶」かを競い合う
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明恵が栂尾に播いた種から育った茶は、いつしか茶園となり、その後約2世紀にわたって発展しました。川霧が深いなど、栂尾は茶栽培に適した条件が整っており、良質な茶が生産されました。その質の高さから栂尾で栽培されたお茶を「本茶」、それ以外の産地で栽培されたものは「非茶」と呼ばれるようになります。
南北朝時代の書物とされる虎関師錬(こかんしれん)が著した『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』には、「我が国の茶は京都の栂尾を第一とし、仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺などがそれに次ぐ」とあります。当時、茶はすでに畿内だけでなく関東などでも栽培されていましたが、「天下一の茶」としてもてはやされていたのは、栂尾茶だったのです。鎌倉時代の末期には、「本茶」か「非茶」かを飲み比べて当てる「闘茶」が、武家や公家、僧侶の間で流行します。いわばお茶の産地当てで勝敗を競うというものでした。南北朝の動乱期になると「闘茶」は、華美で贅沢な「バサラ」の風潮と結びついて、きらびやかなものになっていきます。近江国(現在の滋賀県)の守護大名だった佐々木道誉(どうよ)など遊興にふけった「バサラ大名」たちは、仲間を集め茶寄合を開き、贅を尽くした宴会の中で闘茶を楽しみました。
- 宇治の茶は「天下一の茶」に
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さて、そんな当時一世を風靡した栂尾茶の生みの親である明恵は、宇治に茶をもたらした人でもあります。13世紀前半、明恵が宇治・五ケ庄大和田の里(現在の宇治市五ケ庄西浦)の土地を選んで茶種を播いたと伝えられています。
また、五ケ庄にある万福寺の門前には「栂山の尾上の茶の木分け植えてあとぞ生ふべし駒の足影」と刻まれた歌碑があります。明恵が、馬の蹄の跡に茶種を播くのがよいと指導したエピソードを伝えたものです。
宇治茶は、仁和寺や醍醐などの産地とともに「闘茶」では「非茶」の扱いを受けていましたが、室町時代に入ってその逆転劇が始まります。地理的・気象的条件に恵まれ、茶づくりの研鑽を積んでいった宇治では徐々に茶業が盛んになり、元中3年(1386年)頃、ついには三代将軍足利義満から室町幕府のお茶として特別な庇護を受けることになります。
室町時代後期に一条兼良(いちじょうかねよし)によって編纂された『尺素往来(せきそおうらい)』には、「宇治は当代近来の御賞翫(ごしょうがん)、栂尾は此の間衰微の体に候」とあり、宇治茶が「本茶」と呼ばれていた栂尾茶を追い抜く様が記されています。そして、八代将軍足利義政の頃には、名実ともに宇治の茶こそが「天下一の茶」と称されるようになるのです。
- 栄西・明恵・利休を称える「宇治茶まつり」
- 宇治では毎年10月に、お茶の発展に寄与した栄西禅師、明恵上人、千利休の3人の功績を称えるとともに、お茶に関わった功労者の霊を祀り追慕し、宇治茶の隆盛を祈願する「宇治茶まつり」が催されます。宇治橋三の間での「名水汲み上げの儀」から始まり、興聖寺(こうしょうじ)で新茶の入った茶壺の口を切って茶を点てる「茶壷口切の儀」、使い古した茶筅(ちゃせん)を供養する「茶筅塚供養」が行われます。おごそかで奥ゆかしい宇治ならではの年中行事です。
【参考文献】
『茶大百科I 歴史・文化/品質・機能性/品種/製茶』(2008年発行/農山漁村文化協会)
『宇治茶の文化史』(1993年発行/宇治文庫4・宇治市歴史資料館)
『緑茶の事典』(日本茶業中央会 監修・改訂3版・2005年発行/柴田書店)
『茶の文化史』(村井康彦 著・2011年発行/岩波新書・岩波書店)
『茶の湯の歴史 千利休まで』(熊倉功夫 著・2005年発行/朝日選書・朝日新聞出版)
『日本茶のすべてがわかる本 日本茶検定公式テキスト』(日本茶検定委員会 監修・2009年発行/農山漁村文化協会)