太閤の御茶頭取・上林家の誕生
- 豊臣秀吉の「茶の湯御政道(ごせいどう)」
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豊臣秀吉肖像画(写真協力:高台寺蔵)
織田信長亡き後、天下人となったのは豊臣秀吉でした。秀吉は、信長と同様に茶を愛好し、茶の湯を政治に利用する「茶の湯御政道」をさらに推し進めました。
「本能寺の変」の3年後の天正13年(1585年)には、秀吉が禁中(きんちゅう)で正親町(おおぎまち)天皇に茶を献上。さらに天正15年(1587年)、秀吉は北野天満宮の境内で北野大茶会を催しました。会場には数多くの茶席が設けられ、大阪城からは金の装飾で知られる黄金の茶室も移築されました。また公家や武士だけでなく、町人や百姓、外国人に至るまで広く開放され、千人にもおよぶ参加者が集まったといわれています。
大茶会を開くことにより、権勢を誇示するとともに、人々に天下泰平を印象づける目的があったのではないかと考えられています。
- 秀吉、愛用の宇治茶を保護
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一方、宇治では、新進の茶師だった上林家が、古参の森家などを凌駕し確固たる地位を築きつつありました。京都・吉田神社の神主だった吉田兼見(かねみ)が著わした『兼見卿記(かねみきょうき)』には、天正12(1584年)に吉田兼見が、宇治茶見物に訪れた際のことが書かれています。「上林の所を見物す。焙炉(ほいろ)四十八これ在り。茶誘の者、五百人計りこれ在るか。宇治一番の繁昌の由を申しおわんぬ。」とあり、当時の上林家の製茶場には数多くの炉が並び、たくさんの人たちが製茶に携って、たいへん盛況だったことがうかがえます。
この頃から宇治では、茶樹を藁(わら)束や莚(むしろ)などで覆って育てる覆下(おおいした)栽培が始まっていました。その入念な茶園管理技術によって上質な茶葉が摘採され、宇治茶の名声は、ますます全国に知られるようになっていきます。
秀吉も茶会などで宇治の茶を愛用し、宇治のお茶に特権を与えて保護しました。天正12年(1584年)、他郷のものが宇治の茶と号して販売することを禁じる朱印状を発給。また天正17年(1589年)には、宇治郷における国役・夫役を免除しており、秀吉が宇治のお茶を手厚く庇護していたことがうかがいしれます。
- 上林家、ついに「御茶頭取(おちゃとうどり)」に
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左:1600年代に蜂須賀家の協力を得て建てられたといわれる「松好庵」
右:宇治市内覆下園秀吉は、特に宇治の有力茶師「御茶師(おちゃし)」であった上林家を重用しました。天正17年(1589年)、上林家には多くの知行権が与えられ、森家とともに茶師を総支配する「御茶頭取」を務めることになります。上林家も、優れた品質の茶をつくり秀吉の期待に応えました。
宇治・上林記念館には、当時の秀吉から上林家に宛てた書状が、今も大切に保管されています。その内容は、秀吉のところに上林家から納められた茶葉の茶壺への詰め方がぞんざいだったことを叱咤するもの。「届いた茶壺の口封がいい加減で、茶がこぼれた。言語道断。秀吉をおろそかにしているのか」と厳しくたしなめ、慢心を制しています。
しかし、この秀吉からの書状には「上林の茶葉は優れて良いものなのだから」と、激励の言葉も添えられています。秀吉の上林家への厚い信頼と茶に対する真摯な想いを、この一通の書状から読み取ることができます。左:上林春松家に代々受け継がれる呂宋茶壷(ルソン茶壷)
右:秀吉から上林家へ宛てられた書状
- 秀吉が茶の湯を汲ませた宇治橋
- 宇治・上林記念館からもほど近い宇治橋は、日本三古橋のひとつに数えられる橋です。この橋の上流側、三つ目の欄干のところの水汲み場から汲み上げた水は古来、「宇治橋三の間の水」と呼ばれ名水として知られていました。豊臣秀吉も、ここで茶の湯を汲ませたといわれています。今も毎年10月の「宇治茶まつり」では、「名水汲み上げの儀」としてここで汲み上げた水を献茶で使うことが慣例になっています。
【参考文献】
『茶大百科I 歴史・文化/品質・機能性/品種/製茶』(2008年発行/農山漁村文化協会)
『宇治茶の文化史』(1993年発行/宇治文庫4・宇治市歴史資料館)
『緑茶の事典』(日本茶業中央会 監修・改訂3版・2005年発行/柴田書店)
『茶の湯の歴史 千利休まで』(熊倉功夫 著・2005年発行/朝日選書・朝日新聞出版)
『茶道の歴史』(桑田忠親 著・2010年発行/講談社学術文庫・講談社)
宇治・上林記念館資料