上:上林家の家紋
下:上林春松家に残る「綾鷹」関連文書
第十四代上林春松(以下、先代):
上林春松家の歴史を振り返ってみると、われわれにとってもっとも大きな功績を残したのは、江戸時代から明治時代へと変わる激動の時に当主を務めた第十一代上林春松だったのではないでしょうか。幕府や大名からの庇護がなくなり苦境に立たされながらも、新たに問屋業に着手し、茶師から茶商へ転身を図り、お茶を一般の庶民に販売する道を選んでいます。ほかの多くの宇治の茶師たちは、それまでは幕府や大名相手に取引を行っていたため、一般の消費者を相手に商いをするということはプライドが許さなかったようですが、第十一代上林春松は果敢に実行しました。第十一代上林春松は、22歳の時にはもう当主になっておりましたので、おそらく若かったからこそ、茶師から茶商へとうまく転身ができたのではないかと思います。
第十五代上林春松(以下、代表):
若くして当主の座についたために、プライドや伝統にしばられることなく、時代の流れに適応することができたということですね。先代も、かなり若い年齢で当主の座についていますよね。就任された時、上林春松本店はどのような状況だったのですか?
先代:
私の父、第十三代上林春松は、昭和19年に太平洋戦争に召集されて昭和21年に帰還したのですが、帰還後は、戦争の被害によって、全国にいるお得意先と連絡することさえままならない状況でした。ですから一時は、もう茶業から撤退しようかと考えたこともあったようですが、なんとか小さな会社を興し、お茶の卸売業を始めました。しかし、卸売業だけではなかなか厳しい経営状態でした。そして、私が三十歳を過ぎたころ、若くして代表を引き継ぎました。その頃、たまたま京都の百貨店から出店してみないかとのお誘いをいただきました。これまでお茶の卸売りを中心として事業を展開しておりましたので、小売業の分野に進出するというお誘いを受け、進出すべきかどうかずいぶん悩みました。ですが、ひとつの売り場として百貨店は魅力的なのではないかと考え、出店を決意しました。百貨店での販売はこれまでの商売とは異なり、最初は思うように成果が出せなかったのですが、徐々に軌道に乗り始め、今度は東京の別の百貨店からも出店のお話をいただきました。京都の百貨店に出店してからおよそ5年後のことでした。
代表:
やはり先代も若かったからこそ、百貨店に出店するという新しい試みに挑戦できたのですね。私がコカ・コーラ社からPETボトル入りの緑茶開発への協力依頼のお話をいただいたのも、代表になってまだ1年も経たない39歳の時でした。今思えば、経験も浅かったので、柔軟に発想し決断をすることができたのではないかと気づきました。
先代:
これは、大きな英断でしたね。上林家の歴史を振り返ってみると、不思議なことに当主がまだ若い時に過渡期が訪れて、上林春松本店の歴史を左右する英断を下しています。実はこれが上林春松家にとって非常に重要であったのではないかと、歴史を振り返ってみて思いました。若いからこそ、伝統を重んじながらも、それだけにとらわれる事なく、時代の流れに適応して柔軟に発想することができたのですね。ある程度、年月が経ってしまうと、当主としてのある種の伝統の重みのようなものが身についてしまい、そう簡単には、新しい考え方を取り入れたり、柔軟に発想できなくなるものです。さまざまな苦境を乗り越えてこられたのは、運もあるかもしれませんが、この「若さによる柔軟な発想」だったのではないかと思います。
代表:
さて、コカ・コーラ社の新しい緑茶飲料「綾鷹」の開発のお手伝いをさせていただくことになったきっかけについて、振り返ってみたいと思います。後の「綾鷹」となる新しい緑茶飲料の開発プロジェクトの関係者の方々が上林春松本店に見学にこられた時、たまたま私が社内におり対応させていただきました。今、振り返ってみると、これも何かのご縁だったのかもしれません。その時はまだどういった方々なのか知らなかったのですが、かなり専門的なことを質問される方々だという印象が残っています。一般のお客様よりも専門的な質問をされますし、非常に熱心に私の話に耳を傾けられていたので、こちらも真剣になり、出来る限り詳しく誠実にご質問にお答えしたように記憶しています。
代表:
その際投げかけられた質問の中で、PETボトル入りの緑茶についてはどう思うかと聞かれました。予想外の質問に面食らったのですが、PETボトル入りの緑茶は、それまで屋内でしか飲む機会のなかった緑茶を、屋外でも気軽に楽しめる機会を提供することに貢献しているということ、味わいに関してはまだまだだけれど、特にお茶離れが進んでいる若年層の方たちが、これを入り口にして手淹れのお茶に戻ってきてくれることに期待している、というようなお話をさせていただきました。
それからしばらくして、コカ・コーラ社から新しい緑茶の開発協力依頼のお話をいただきました。お話をいただいた当初から、PETボトル入りの緑茶の開発の協力をするということに対しては、否定的ではなかったのですが、上林春松家の伝統や歴史を考えると、当然迷うところもありました。このプロジェクト自体が、まだ公にはできない段階でしたので、私ひとりでプロジェクトの関係者の皆さんと数回にわたりお打ち合わせをしておりました。何回かの打ち合わせを経たのち、最初に先代に相談しました。覚えていますか?
代表:
実は、先代にコカ・コーラ社の新製品開発への協力依頼の話を初めて相談したとき、先代からは当然ながら反対されると思っていました。しかし、先代からは、賛成するわけでもなく、反対するわけでもなく、百貨店への出店を英断した経緯などを、私に初めてきちんと話してくれました。反対されるものと思って相談した私は、どちらかというと肩すかしをくらった感じでした。なにかきっかけになる言葉が先代からあったわけではありませんでした。若い頃の自分の経験を伝えることで、伝統だけにとらわれるのではなく、時代の潮流を読み取りながら自分自身で柔軟に対応しなさいという、言葉の裏側にある想いに救われました。
代表:
もうひとつ、最初の一歩を踏み出せたきっかけは、私自身が、「もし弊社がこの話にのらなかったら、この企画はどうなるのですか」と尋ねたところ、プロジェクトのブランド担当者の方が「当然、立ち消えになります」と即答されたことでした。このプロジェクトチームの方々は、お茶の専門家や茶舗であればどこでもいいというわけではない、上林春松本店の伝統や歴史を理解し、お茶作りの姿勢を買ってくれている、私たちでなければならないのだ、という想いがこの言葉から伝わってきました。そのように言われ、私は大変うれしく思いましたし、コカ・コーラ社の意気を感じました。と同時に、この新製品の開発への協力を求められていることをたいへんありがたく思いました。このやりとりがなかったら、先代に相談をすることもなかったかもしれません。
コカ・コーラ社の仕事の進め方は、私たちとは何もかも違いましたので、コカ・コーラ社と仕事を進めるにつれ、大きなカルチャーショックを受けました。それは今も受け続けているのですが、いろいろ学ぶことが多いですね。弊社にも取り込めるような仕事の進め方、発想の仕方などがあれば積極的に学ぼうと思っております。これがコカ・コーラ社とお付き合いをさせてもらう中で、私たちにとっていちばんの大きな財産かもしれません。とにかくひとつのブランドをつくりあげるのに、様々な部署の方々が携わり、膨大な作業を行っていくという、力の入れ方に驚かされました。PETボトル入りの緑茶といえども、ひとつの製品を世の中に送り出すまで、それぞれの分野における専門家の皆さんの英知を結集しているということに感銘を受けましたし、ものづくりの楽しさと生みの苦しみを目の当たりにすることもできました。
コカ・コーラ社の魅力的な仕事のやり方と開発の面白さにどんどんひかれていき、いつの間にか、本当においしいPETボトル入りの緑茶を、コカ・コーラ社に協力して実現してみたいという気持ちが強まっていました。しかし、本格的な味わいの実現への強い期待感はありましたが、当然ながら大きなビジネスに巻き込まれていくことが不安でもありました。期待半分、不安半分、という気持ちが正直なところでした。これはずっと続き、製品が発売になるまで拭えなかったです。