綾鷹物語

上林春松本店の章

第一話

戦国の覇者、信長と上林家

上林春松本店の歴史と日本の偉人たち

上林春松家に今も残る茶師の独特の建築物である長屋門(宇治の文化的景観に指定)

京都・宇治の老舗茶舗「上林春松本店」には、十四代にもわたる450年の長い歴史があります。そこにはお茶の文化の変遷とともに、信長、利休、秀吉、家康など、日本史を彩ったさまざまな人物が関わる出来事が数多く刻まれています。この章では史実を遡りながら、上林春松家の現在までの歴史を辿っていきます。

総業450年。
宇治の老舗茶舗・上林春松本店

左:宇治の茶師一覧 右:上林家 家系図

上林春松本店の歴史は、今から約450年前に遡ります。初代上林春松により創業されたのが、永禄年間(1558〜1570年)の頃。当時、室町幕府の権力は失墜し、戦国の動乱の中で、織田信長がその勢力を強めていました。
元来、上林家は、丹波上林郷(現在の京都府綾部市)の豪族でしたが、初代上林春松の父にあたる上林久重(ひさしげ)が宇治に移り住んで茶業に携わるようになります。
それが、宇治のお茶と上林家の結びつきの始まりです。その後、久重の4人の子息である久茂(ひさもち)、味卜(みぼく)、春松(しゅんしょう)、政重(まさしげ:後の竹庵)がそれぞれ一家を興し、そののち上林春松家が宇治を代表する茶師の後裔として茶業を営みながら今に至っています。

足利義満の御用達だった宇治のお茶

上林城址風景 宇治・上林記念館所蔵

上林家が移り住んだ宇治は、奈良と京都のほぼ中間に位置しており、古くから交通の要衝(ようしょう)としての役割を果たしてきました。また街を流れる宇治川は、京都・大阪を結ぶ重要な水運でした。宇治が茶の産地としての地歩を固めていくための礎は、すでにできあがっていたのです。元中3年(1386年)頃には、金閣寺の建立などで北山文化を開花させたことで知られる三代将軍足利義満が、宇治の茶園を特別に庇護しました。対象となった茶園は、森、川下、朝日、祝、奥山、宇文字の六園で、後になって新進の上林家の琵琶園が加わり「宇治七茗園」と呼ばれるようになったと、地誌『僊林(せんりん)』などには記述されています。このようにして宇治のお茶は、室町幕府のお茶として地位を確立、重用されたのでした。

天下人・信長と茶師・上林家

しかし、室町幕府の衰退とともに将軍家と深く関わっていた宇治の茶師たちは、大きな痛手をこうむることになります。元亀4年(1573年)、室町幕府最後の将軍、足利義昭は織田信長軍と宇治の槇島城(まきしまじょう)で戦って敗退。奇しくも宇治は、室町幕府終焉の地となりました。
この槇島城の戦いの翌年、織田信長は、宇治を訪れて茶の湯を楽しみ、茶摘みや製茶を見物したと伝えられています。
そして天正5年(1577年)、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀の居城、信貴山城(しぎさんじょう)を信長が攻めた「信貴山城の戦い」でのこと。上林久重の長男で、初代上林春松の兄にあたる上林久茂が、信長を城まで導く道案内役を果たしたと伝えられています。信長と上林家の関係を物語る興味深い出来事です。

新たな時代の幕開け

その後、上林家には信長から知行権と白銀が与えられ、茶の献進を命じられました。すでに上林家が、新たな飛躍への糸口を見出していたことがうかがえます。
ところが天正10年(1582年)、予期せぬ出来事が起こります。それが「本能寺の変」です。前日、京都・本能寺で茶会を開催し宿泊していた信長が、明智光秀に討たれ横死します。この事件とともに、上林家も新たな時代を迎えることになります。

信長、本能寺で茶会を開く
本能寺の変が起こる前の日、信長は、本能寺に公家たちなどを招いて茶会を催しました。安土城からは、名物茶器が多数持ち込まれ披露されたといわれています。その日の夕方には、丹波亀山城を出陣した明智光秀の軍勢が、「敵は本能寺にあり」の号令により、本能寺を目指すことになります。

【参考文献】
『茶大百科I 歴史・文化/品質・機能性/品種/製茶』(2008年発行/農山漁村文化協会)
『宇治茶の文化史』(1993年発行/宇治文庫4・宇治市歴史資料館)
『緑茶の事典』(日本茶業中央会 監修・改訂3版・2005年発行/柴田書店)
『日本茶のすべてがわかる本 日本茶検定公式テキスト』(日本茶検定委員会 監修・2009年発行/農山漁村文化協会) 宇治・上林記念館資料

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