お茶の章

第四話

世界に広まる日本のお茶

当時輸出されていたお茶のラベル 横浜開港資料館所蔵
日本の緑茶、世界へ
江戸から明治にかけて、全国各地で生産・製造されるようになった日本の緑茶は、海外でも人気を集めるようになります。緑茶の輸出が積極的に行われるようになったきっかけは、嘉永6年(1853年)のペリー長官が率いるアメリカ東インド艦隊の浦賀来航でした。これを受けて5年後の安政5年(1858年)には、日本はアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと通商条約である「安政五カ国条約」を結び、箱館・兵庫・神奈川・長崎・新潟の5港の開港を取り決めました。そして、翌年の安政6年(1859年)から緑茶は、重要な日本の輸出品として海を渡り、日本の茶業は大きな転換期を迎えます。
緑茶の志士、大浦慶と清水次郎長
江戸期の鎖国政策の中で唯一、開港していた出島があった長崎では、老舗の油問屋の娘として生まれた大浦慶(おおうらけい)が、お茶の輸出貿易の先駆者として活躍します。安政3年(1856年)、イギリスの商人からお茶の発注を受けた大浦は、1万斤(約6トン)ものお茶を九州一円の茶産地をまわって集め、アメリカに輸出しました。これが日本茶の輸出貿易の先駆けとなり、成功を収めた大浦は一躍有名になり、坂本龍馬や大隈重信といった、当時の維新志士たちとも、親交が深かったと言われています。
緑茶の輸出は当初、大浦慶の活躍した九州が中心でしたが、徐々に大きな茶の産地である静岡からの輸出が増えていきます。明治32年(1899年)には、「安政五カ国条約」時の5港に次ぐ6港目として、静岡・清水港が、外国との貿易に使用される開港場に指定され、茶を取り扱う外国商社が数多く置かれるようになり、緑茶の主要輸出港として栄えます。清水港が輸出拠点となったことにより、茶生産の中心地が宇治から静岡に移ることになります。この清水港の発展に寄与したのが、幕末・明治の侠客(きょうかく)として知られる清水次郎長(しみずのじろちょう)でした。清水次郎長は、早くから清水港の発展のために茶の販路を拡大することを提案。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備するよう訴えました。また、清水次郎長は、富士裾野の荒野を開墾する事業をおこし、茶園の造成を手がけました。
明治期における重要輸出品目の輸出総額に対する割合農文協
茶大百科(2008年)より
世界にはばたく、緑茶と日本の文化
明治維新を契機にして、緑茶は日本の輸出にはなくてはならない花形産業として急速に成長していきます。明治初期には、日本の輸出総額のうち約6割を生糸、次いで緑茶が約2割を占めていました。また明治後期には、緑茶の輸出量は約2万トンに達し、これはなんと当時の日本国内のお茶の生産量の約6割に当たるほどでした。
また、明治期における日本の最大の輸出先はアメリカで、日本で生産されるお茶の実の6〜9割がアメリカで消費されていました。彼らは、コーヒーや紅茶と同じように煎茶にミルクや砂糖を混ぜて飲んでおり、何も加えずに緑茶本来の味や香りを楽しむ日本の飲用法とは、異なるものだったようです。

こうして、緑茶が日本からアメリカへ盛んに輸出されていた明治39年(1906年)、岡倉天心の「茶の本」がニューヨークで出版されました。本の原題は「The Book of Tea」で、茶道の歴史や茶室、茶道とつながり合う芸術の鑑賞について記し、お茶の文化、さらには東洋の美と調和の精神を、海外の人たちにアピールする契機になりました。

緑茶は重要輸出品から国内向け嗜好飲料に
日本の重要な輸出品となった緑茶ですが、茶価の高騰などから大正10年(1921年)には、お茶の輸出量はピーク時の約4分の1に激減してしまいます。その輸出に代わるようにして伸びていったのが、緑茶の国内消費でした。販売の重点は次第に国内市場に置かれるようになり、緑茶は国内向けの嗜好飲料に変わっていきました。秀吉や家康などには古くから愛飲されていた緑茶ですが、一般の人々の生活に根づいたのは意外に最近のことで、大正期中頃からといわれています。

【参考文献】
『茶大百科I 歴史・文化/品質・機能性/品種/製茶』(2008年発行/農山漁村文化協会)
『宇治市史3近世の歴史と景観』(1976年発行/宇治市)
『緑茶の事典』(日本茶業中央会 監修・改訂3版 2005年発行/年発行/柴田書店)
『日本茶のすべてがわかる本 日本茶検定公式テキスト』(日本茶検定委員会 監修・ 2009年発行/農山漁村文化協会)
『清水市史 中巻』(1964年発行・清水市)
『清水次郎長―幕末維新と博徒の世界』(高橋 敏・2010年発行/岩波新書・岩波書店)

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