お茶の章

第一話

日本人、茶と出会う

空海(弘法大師)肖像画
最澄、空海も茶をたしなむ
お茶は、茶の発祥の地、中国から伝来し日本でも飲まれるようになります。正史に残るものでは、平安時代の初期に編纂された歴史書『日本後紀』に弘仁6年(815年)、嵯峨(さが)天皇が行幸の途中で近江国(現在の滋賀県)のお寺に立ち寄り、そこで茶が献じられたと書かれています。また、遣唐使とともに唐に渡り仏教を学んだ最澄と空海も、嵯峨天皇と交わした句の中に茶のことを記しています。

しかし日本で当時飲まれていたのは、今日のお茶の姿とはかなり異なり、生茶を蒸して丸く餅状にした固形のもの。これから必要な量だけを切り取り火で焙(あぶ)ったあと、細かく砕き粉にしたものを煎じて飲んでいました。固形ではない散茶のかたちで飲まれるようになるのは、これより後のことです。

栄西肖像画 建仁寺所蔵
平清盛が交易を進めた宋から、
栄西が新しい喫茶法を持ち帰る
大宰大弐(だざいのだいに)になった平清盛が博多に港を築き、その後も太政大臣として日宋貿易の拡大に努めていた仁安3年(1168年)、ひとりの僧侶が宋に渡ります。臨済宗の開祖として日本史にその名を残す栄西禅師です。栄西は、文治3年(1187年)に再び入宋し、それまでの固形茶とはちがい、茶葉を挽いて湯に入れて飲む新しい喫茶法を携えて帰国。その後、茶の栽培を推奨するとともに広く飲茶を勧め、のちに京都や鎌倉にお茶の文化を広めることになります。
栄西の大きな功績として忘れてはいけないのが、日本で最初の茶書とされる『喫茶養生記』を著したことです。本書は上下二巻からなるもので、上巻では茶の種類や喫茶の法、茶樹の栽培などが記されています。ちなみに下巻では、主に桑の効用と用法を説いています。完成したのは承元5年(1211年)だったと伝えられていますから、栄西すでに71歳の時でした。
建仁寺 外観
茶祖・栄西、建仁寺を開く
日本にお茶を広め「茶祖」とも称される栄西によって開山された京都最初の禅寺が、建仁寺です。宋の百丈山(ひゃくじょうざん)を模して建立されたのは、建仁2年(1202年)のこと。鎌倉ではこの年、急死した源頼朝に代わって源頼家が第二代将軍に就任しています。

今も賑やかな京都・四条通りから離れて少し進めば、そのひっそりとした佇まいを望むことができます。見どころの多い建仁寺ですが、栄西禅師の墓所として知られる開山堂の手前に茶祖としての栄西を称えた茶碑が建てられており、裏手には慎ましやかな茶園があります。そのほかにも寺内の随所で美しいお茶の緑を茶垣などで楽しむことができます。
本坊の方丈では、古くから伝わる禅院の茶礼に基づいた「四頭(よつがしら)の茶会」が、今も毎年栄西の誕生日の4月20日に開催されています。また、同じく本坊にある「東陽坊(とうようぼう)」は、天正15年(1587年)に豊臣秀吉が催した茶の湯の一大行事、北野大茶会の副席で用いた茶室と伝えられるもの。この茶室を利休の高弟・真如堂(しんにょどう)の東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)が好んだことから、「東陽坊」と名付けられたといわれています。
今に受け継がれる禅宗式の茶会「四頭(よつがしら)の茶会」
建仁寺では、禅院の茶礼の伝統を受け継ぐ「四頭の茶会」が今も催されています。これは茶の湯の元祖のような茶会で、主位(しゅい)・賓位(ひんい)・主対位(しゅたいい)・賓対位(ひんたいい)の4人の正客(しょうきゃく)が対座する、禅院の斎宴の着席法で行われます。現在は、栄西の生誕を祝う茶会として、毎年4月20日に開かれます。

【参考文献】
『茶大百科I 歴史・文化/品質・機能性/品種/製茶』(2008年発行/農山漁村文化協会)
『緑茶の事典』(日本茶業中央会 監修・改訂3版・2005年発行/柴田書店)
『茶の文化史』(村井康彦 著・2011年発行/岩波新書・岩波書店)
『茶の湯の歴史 千利休まで』(熊倉功夫 著・2005年発行/朝日選書・朝日新聞出版)
『日本茶のすべてがわかる本 日本茶検定公式テキスト』(日本茶検定委員会 監修・2009年発行/農山漁村文化協会)
『ブリタニカ国際大百科事典』(第3版・1995年発行/ティビーエス・ブリタニカ)
『新版 古寺巡礼 京都 23 建仁寺』(2008年発行/淡交社)

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